Not on the Symbols
「そう、タンバリンが導いてる。きらめく光が、聖なる凍てついた空間を、瞬きながら導いてる。やがてそれは天から降り注ぐ光に溶けていく……」
(……何言ってんだこの人……)
白光山学園大学ウインドオーケストラの練習室。五十嵐明香は、またしても心中でため息をついていた。
(これまた変な人を連れてきたもんだなぁ……三か月だけだけど、やっていけるか非常に不安……)
定期演奏会まで、あと三か月弱。今年のメインプログラムは、John Mackey 作曲『The Frozen Cathedral』。白光山学園大学ウインドオーケストラ、通称「白学ウインド」にとっては、初めて取り組む曲だ。
そして今年指揮台に立っているのは、昨年まで長く振ってくれた前任の大谷先生ではない。大谷先生は年度末をもって引退した。後任を探していた運営陣が、どういう伝手か知らないが、客演として連れてきたのが、いま目の前で手を顎に当て、天井を見上げている逆井謎子という人物だった。
「んー……んんー……」
謎子は天井の方を向いたまま目を閉じ、何度もうなっていた。明香はその姿をあらためて眺めた。くたりとしたパーカーに、ふわりとしたロングスカート。胸のあたりには、スマホの画面で見たような気がする、丸いロゴがプリントされている。年齢はよくわからない。本人は「まあアラフォーやで~」と笑っていたが、見た目だけだと三十代にも四十代にも見える。髪は肩にかかるミディアムボブで、光に当たるとうっすらブラウンが透けて見える。「なこさん、って呼んでくれてええよ~」と名乗るその人が、この三か月の明香たちの指揮者だった。
「この曲の後半ね、タンバリンがスッと入ってくるんやけど、これがね、全体の空気を作ってる感じがあるんよ。だから、アンサンブル全員が、その『空気』の中に入ってくるような気持ちで音を出してほしいんよね~」
「はっ、はいっ」
打楽器パートの列でタンバリンを手にしていた一回生、山添光輔が、子犬みたいに何度も頷いた。光輔は新入部員だ。高校時代も吹奏楽部に所属していたらしいが、今どきの子にしては珍しく、入部時の自己紹介で「打楽器ならなんでもやります!」と本気で宣言していた。明香から見ると、正直能天気にも映っていた。
(この子、本当に大丈夫なんだろうか。さっき謎子さんが「聖なる凍てついた空間」とか言ってたけど、ちゃんと意味わかって頷いてたのかな……)
しかし、光輔の目は爛々と輝いていた。「タンバリンが導いてる」「きらめく光」「凍てついた空間」。それらのフレーズに、何かが彼の中でビビッと来たらしい。横目で盗み見た明香には、光輔の表情が、まるで知らない国へこれから旅立つ子供のように見えた。
(……こっちは困惑してるのに、あっちは楽しんでるのね……)
明香の手元には自分のパート、フルートとバスフルートの譜面が広げられていた。『The Frozen Cathedral』には、曲の前半に、バスフルートの長い独奏が二回ある。一回目は、神秘的で、少し張りつめた独奏。二回目は、似た旋律が別の調に移されて、柔らかく、温かく戻ってくる。どちらも、明香が吹く。
コンサートマスターとして、バスフルート持ち替えの独奏奏者として、そして何より完璧に準備する人として、明香は譜面の細部まで読み込んでいた。ブレスの位置、スラーの繋ぎ方、運指の癖。昨日も一昨日も、早朝から練習室に籠って詰めてきた。
謎子はその譜面を、遠目にちらりと見ただけだった。
「五十嵐さん、ちょっといい?」
「……はい」
練習休憩のあいだ、謎子がトコトコとこちらへ歩いてきた。明香は立ち上がろうとしたが、謎子が手のひらを軽く振って、それを制した。
「座ってて、座ってて。あのね、提案があってね」
明香が身構えると、謎子は譜面台のバスフルート譜を指先で軽く叩いた。
「バスフルートのソロ、吹いてみて、聴いてみて、どんなイメージが浮かぶ? その時、脳の中では何が起きてるんやろね?」
明香は一瞬、謎子の質問が理解できなかった。
「……えっと、イメージ、ですか?」
「うん。楽譜や楽器とにらめっこするのもいいけどね、こういうこと、ちょっとだけ考えてみるのも面白いよ」
明香の頭の中で、「答えるべき正解」を探す回路が、空回りをした。イメージ。バスフルートの独奏。浮かぶ、何か。
譜面の音符の並びやフィンガリングの癖はすぐに出てきても、「イメージ」と言われた瞬間、どこにも何も、浮かばなかった。
「……考えてみます」
ようやくそれだけを答えると、謎子は「うん、ほなよろしくね~」と笑い、軽く手を振りながら、譜面台のあいだを縫うように去っていった。
明香は、譜面を見下ろした。
音符の並び。書き込んだ文字や印。
何度も何度も目で追ったはずのその譜面が、なぜだか、初めて見るもののように思えてならなかった。
あれから何日か経った。
明香は練習室の隅で、バスフルートを組み立てていた。金属の冷たさが指に伝わる。朝の九時前の練習室は、自分ひとりしかいない。
譜面台には、例の『The Frozen Cathedral』のパート譜。書き込んだ赤鉛筆の文字が、昨日よりも少しだけ濃くなっていた。
(イメージ、なんて、言われても)
何度も頭の中で考えた。あの日謎子に「どんなイメージが浮かぶ?」と問われて、咄嗟に答えられなかった自分のことを。帰り道に、電車の窓から外を眺めながら。自室の布団の中で。思い出しては、また考えた。
浮かぶもの。脳の中で起きてること。
言われてみると、どちらも正解の形が捉えにくい問いだった。譜面の上には、正解がある。「ここは音を切らない」「ここでブレスは絶対に入れない」のような、線の引ける場所があった。
でも、「イメージ」には、線がなかった。
明香は軽く息を吸い、バスフルートに唇をあてた。最初の音。低く、暗い、大気の吐息のような音。独奏の最初のフレーズ。明香は書き込みどおりに吹いた。楽譜の指示に、寸分違わず。吹き終えた時、背後でパサ、と誰かが譜面をめくる音がした。
「うーん、きれいやね」
謎子の声だった。いつの間にか、練習室の入り口のあたりに謎子が立っていた。
「……おはようございます」
明香は、慌ててバスフルートを下ろした。
「いやいや、続けてて、続けてて」
謎子はトコトコと近づいて、譜面台の横に立った。明香の書き込んだ赤い印を、目を細めて眺めていた。
「きれいやし、正確やし、書いてあることは全部やれてる。すごいな~」
明香は小さくお辞儀をした。褒められたはずなのに、謎子の「きれい」という一言が、どこか別の方角に落ちていった気がした。
「でな、五十嵐さん、ちょっと提案があってね」
また、提案。
「例えば、もっと寒々しく、遠くから、でも渇望を抱いて、とかね。そういうのは、どうやろね」
明香は謎子の言葉を、脳の中で繰り返した。寒々しく、遠くから、でも渇望を抱いて。三つの形容。そのどれもが、譜面の上には書かれていないことだった。
(……どう、吹けばいいんだろう)
「寒々しく」を、ピアニシモで? ビブラートを抑えて? でも「渇望」がある。渇望をどうやってビブラートで表現するんだろう。そもそも「寒々しく」と「渇望を抱く」が、同じ一つの音に同居するというのは、どういうことなのか。
明香の頭の中で、「寒々しく」を翻訳する回路が、「渇望」で詰まった。
「……はい。やってみます」
ようやく、それだけ答えた。謎子はうんうんと頷いて、また、トコトコと離れていった。
明香はもう一度、バスフルートを構えて最初の音を出した。
自分でも、その音が「寒々しく」も「渇望」もしていないのが、わかった。
さらに、何週間かが経った。
合奏の密度は、日に日に上がっていた。最初はばらついていた音の出だしが少しずつ揃い、謎子の「んー……」の語尾が、少しだけ、機嫌の良さを含んだ音に変わってきていた。
その日の合奏は、曲の中盤から始まった。九分を過ぎたあたりで、タンバリンが入ってくる。明香は譜面を見ていた。自分のフルートのパートは、しばらく16分のリズムを刻んでいる。
シャ、シャ、シャ、という、控えめなタンバリンの音。徐々に鋭い音とテクニカルなロールも混じってくる。指揮台の謎子がピタッ、と振り下ろす手を止めた。合奏はふわり、と途切れる。
そして謎子は、パン、と両手を叩いた。
「そこ! ごめん、止めてごめんね、そこね、山添くん」
打楽器パートの光輔が、「はっ、はいっ」と跳ね上がるように返事をした。
「今の、めちゃくちゃ良かった。ていうかな、山添くん、君がここで、曲全部を引っ張ってるんよ」
明香は譜面から目を上げた。謎子は指揮棒を楽しげにクルクル回しながら、一回生の光輔に向かって熱っぽく喋り出していた。
「タンバリンがスッと入ってきて、こっから曲が変わるんよね。この導きがない曲は、成立しないんよ。『タンバリンが導いてる』って、本当にそうなんよ」
光輔は目を丸くしていた。でも、だんだん、頬が赤くなっていった。
「……は、はいっ、がんばります!」
明香は再び譜面に目をおろして、息をひそめていた。
(……この子が?)
練習初日の、あの能天気な宣言。「打楽器ならなんでもやります!」の、あの子が?
明香は光輔のタンバリンの音を、あらためて思い返した。シャ、シャ、シャ。確かに、不思議な音だった。控えめなのに、消えない音。時間の中に、しるしを打っていくような音。
(わたし、聴いてなかった)
聞いていたはずだった。毎日、合奏のときに耳元を通過していたはずだった。でも、聴いていなかった。自分のパートだけを追っていて、「光輔のタンバリン」としてその音を聴いたことは、一度もなかった。
明香は、譜面の最後のページを、指先でそっと、めくった。
その日、練習が終わって部屋に戻った明香は、シャワーも食事も後回しにしてノートパソコンを開いた。検索窓に『The Frozen Cathedral』と入れる。トップに出てきたのは、作曲者の公式サイトだった。黒を基調にした、シンプルなページ。曲の紹介を開くと、末尾に Program note と書かれた長い英文と、作曲者本人のコメントが並んでいた。
明香は、英語はそれほど得意ではない。でも、翻訳の補助を使いながら、一文ずつ読んでいった。読み終えた時、明香は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
アラスカ、デナリ国立公園を愛した少年。その少年に捧げられた曲。曲名は、作曲者の妻が名付けたのだという。人はなぜ山に行くのか。巡礼のため、崇高なもの、超越を求めて。巨大な山は、教会のようだ。だから、Frozen Cathedral。凍てついた大聖堂。
明香は、画面を閉じなかった。別のタブを開いて、今度は動画検索を始めた。合奏で切れ切れに拾っていた音を、誰かの通し演奏で、一度全部聴きたかった。日本のある学校の吹奏楽部の動画を見つけた。部屋の灯りを絞って、ヘッドフォンをつけた。
最初の、金属のきらめき。譜面で何度も見ていた冒頭を、耳で確かめた。やがて、バスフルートが入ってくる。神秘的で、少し張りつめた、一回目の独奏。自分が昨日、譜面どおり、寸分違わず吹いた音を思い浮かべた。同じ音。同じ拍。同じ呼吸。でも、動画の中の音には、何かがあった。譜面の外側から、何かが漂ってきていた。
二回目の独奏。柔らかく、温かく、似た旋律が戻ってくる。胸の奥に、息が詰まるような感じがした。そして、独奏はそこで終わりを迎えた。
(……あれ)
少し、戸惑った。そういえば、もう自分のソロパートは終わりだったっけ。
曲は、続いている。音の群れが押し寄せ、崩れ、また戻り、続いていった。
九分を過ぎたあたり。シャ、シャ、シャ、と、控えめな、でも確かな音が、画面の向こうから聞こえてきた。
(……光輔の、タンバリン)
動画の奏者の顔を見ながら、違うイメージが浮かんでいた。曲の空気が、ゆっくり変わっていく。冷たさが、少しずつ温かさに置き換わっていく。全体が、タンバリンの刻みに連れられて、別の方向へ歩き出す。いつのまにか、目は閉じていた。
(……導いてる)
確かに、導いていた。自分の独奏は、その前に終わっていた。独奏は曲の完成ではなく、曲のひとつの通過点。曲を完結させるのは、自分じゃない。自分の独奏のあとで鳴る、この控えめな楽器。これに自分は、曲を託していた。
(……そうか)
目を開ける。画面の中の曲は、終盤へ向かっていた。凱旋のような温かい響き。力強く後押しする、ティンパニの咆哮。胸のあたりが、熱かった。
導くタンバリン。そして、追悼されている少年。頭の中で、二つがゆっくりと重なった。遠くからタンバリンが鳴る。きらめく光が、聖なる凍てついた空間を、瞬きながら進んでいく。そして、降り注ぐ光に溶けていく。
明香は、ノートパソコンを閉じて、机の上に突っ伏した。涙は出ない。でも、何かが、体の中で、ぐるぐると、回っていた。「打楽器ならなんでもやります!」と、入部式で無邪気に叫んだ、あの子が、まばゆく閃きながら、導いている。
(……わたしは、何を、準備してたんだろう)
顔を上げて、机の上の譜面のコピーを引き寄せた。赤い鉛筆の書き込みが並んでいた。ブレスの位置。スラーの繋ぎ方。運指の癖。
全部、正しい。全部、足りない。
それから本番までの一週間は、明香の記憶の中で、ほとんど同じような時間の繰り返しだった。
早朝の練習室に入り、バスフルートの独奏を何度も何度も吹き直した。「寒々しく」の翻訳。「渇望」の処理。「遠くから」の距離。全部、正解がない。でも、試さずにはいられなかった。
書き込みは、日に日に増えた。赤い鉛筆が減り、青と緑が加わった。譜面は、まるで誰かの手帳のように、ごちゃごちゃした色の線で覆われていった。でも、吹けば吹くほど、発する音色は何かから遠ざかっていく気がした。細部を拾えば拾うほど、動画で聴いた「譜面の外側から漂ってくる何か」が、逃げていくようだった。気持ちよく吹けない。ただそれだけの、でも、致命的な感覚。
本番の三日前、明香は、謎子を廊下で呼び止めた。
「なこさん。……ちょっと、相談、いいですか」
「あ、五十嵐さん。OKOK、大歓迎やで~、どうしたん?」
謎子は、パーカーの袖を腕まくりしながら、少し前傾姿勢気味にスコアを広げる。
明香は、譜面のファイルを胸に抱えたまま、少しだけ声を絞った。
「……わたし、どれだけ練習しても、うまく吹けないんです。細部を詰めれば詰めるほど、音が、なんか遠くなっていく感じがして」
謎子は広げたスコアをすぐに閉じて、うん、うん、とうなずきながら聴いていた。
「なこさんの、『寒々しく』とか、『渇望』とか考えて、やってるんですけど、でも、近づけなくて」
明香は、一息ついてから、付け加えた。
「……本番、もう、三日後です」
謎子は少し、首をかしげた。
「うーん、そっか。……ちょっと、訊いていい?」
「はい」
「五十嵐さんは、いま、なんで、練習しとるん?」
明香は一瞬、質問の意味を掴みそこねた。
「……なんで、って」
「うん。なんで。目的、というか、動機というか」
「……本番で、ちゃんと、吹けるように」
「ちゃんと?」
「……失敗しない、ように」
謎子はゆっくりと、頷いた。
「うん、……わたしな、思うんやけどな。恐怖で練習しても、広がらんのと違うかなぁ」
明香の頭の中で、何か小さな音が、カチッと、鳴った。
「恐怖じゃないです」
反射的に、声が出た。
「責任です」
謎子は明香の目を、静かに見た。
怒ってはいなかった。否定されている顔でもなかった。ただ、ちょっと悲しそうにも見える顔で、うなずいた。
「責任、かぁ。なるほど。やさしさを持った人からしか聞けへん言葉やね……」
謎子はそこで、やわらかく笑った。
「ところで、責任という概念は、どんな音になって、それを聴いた人にはどんな感覚が発生するんやろうね?」
「よかったら、無理ない範囲でもうちょっとだけ、深堀りして考えてみて。ほな、また明日」
そう言って謎子は、廊下の先の合奏室のほうへ、歩いていった。
明香は廊下の真ん中に、ひとり、残された。
譜面のファイルが、腕の中で、じんわりと重かった。
本番当日。会場は、市内の大ホール。客席は千人規模。
明香はステージ袖で、バスフルートの管を最後にもう一度、布で拭いた。隣には、フルートのケースが開いている。前半の独奏二回はバスフルート、後半はフルート。何度も練習した。息を吸う。胸がすこし、震える。謎子の言葉が、頭の中をよぎった。
恐怖で練習しても、広がらんのと違うかなぁ。
責任、かぁ。なるほど。やさしさを持った人からしか聞けへん言葉やね。
ところで、責任という概念は、どんな音になって、それを聴いた人にはどんな感覚が発生するんやろうね?
明香は首を、軽く振った。あれから、深堀りした。何度も、考えた。でも、答えはまだ出ていない。
「コンマス」
後ろから、仲の良い同期が軽く肩を叩いた。
「お願いね、明香」
「……うん」
明香は譜面ファイルを抱えて、ステージへ歩き出した。ライトが、まぶしかった。譜面台に譜面を置く。バスフルートとフルートを横並びに置く。客席は、暗くてよく見えない。譜面の一ページ目を、指先で、そっと開いた。
ふと譜面台の向こう側を見ると、指揮台の謎子と目が合った。謎子は明香に、ほんの少しだけ首を傾げて笑った。明香は、つられたように口元がゆるんだ。
いつものパーカーではなかった。今日の謎子は、黒いスーツを着ていた。「演奏会用の一張羅」と誰かに言っていたのを、明香はちらっと思い出した。
謎子の手が、上がる。会場が、しんとなった。最初の金属のきらめき。少し変わった打楽器のひそやかな音が、客席を取り囲むように鳴り始めた。曲が、始まった。
明香は譜面の中で、自分の出番を待った。冒頭の、長い静かなセクション。金属の音が、空気をゆっくりと冷やしていく。やがて、自分の出番が近づいてきた。息を整える。書き込みは、見ない。
(……見ても、もう、しょうがない)
唇を、バスフルートに当てた。最初の音。早朝の練習室で何度も鳴らしたその音が、大ホールの空気の中で、ゆっくりと膨らんだ。
何かが、譜面の外側から漂ってきた。明香はそれを、追わなかった。追わずに、ただ書き込んだとおりに、書き込みを忘れたとおりに、吹いた。最初の独奏が、終わった。
管楽器のコラールが、密度を増していく。怒っているのではなさそう。何か少し圧倒されるような、神秘的な響き。
二回目の独奏。明香はもう一度、唇を当てた。今度は最初の音が少しだけ、明香の意思を含んでいるように、鳴った。
(……渇望)
たぶん、これが近いのかもしれない。遠くから近くへ。冷たい呼吸から温かい呼吸へ。最初に書き込んだ「線」を、今は、なぞっていなかった。なぞるかわりに、譜面の外側から漂ってきた何かを、息に乗せて空中に置いた。
二回目の独奏が、終わった。明香は、静かにバスフルートを譜面台の脇に置いた。フルートを構える。そして、後半の譜面を見つめた。
曲は、続いている。明香のフルートも、アンサンブルの中で十六分のリズムを刻んでいた。真ん中を過ぎたあたり。譜面の右下、自分でも気がつかないうちに何度も丸で囲んだ印。その先に、光輔のタンバリンが入る。明香の頭の中で、シャ、と音が聞こえる気がした。
(……まだ、鳴っていない)
でも、聞こえた気がした。そして、譜面の小節線を一本過ぎた瞬間。シャ、シャ、シャ、と、本物の音がステージの向こう側から、入ってきた。
光輔の、タンバリン。明香の中で、何かが、ふわり、とほどけた。
遠くから、タンバリンが鳴る。きらめく光が、聖なる凍てついた空間を、瞬きながら進んでいく。やがてそれは、降り注ぐ光に溶けていく。
明香の指は、譜面の十六分を打っていた。もう、譜面は見ていなかった。巨大な山。雪に覆われた、遠い場所。誰も登ったことのない、教会のような山。冷たく静かな場所。その場所に、タンバリンの音が、届いていた。
「打楽器ならなんでもやります!」と、入部式で叫んだあの一回生の手から、まばゆい光が、閃きながら、その場所へ昇っていく。明香は、自分のフルートを、その光の中に預けた。
譜面上の記号は、もう、記号ではなくなっていた。あったのは、ただ、漂うものだけだった。譜面の外側から、ずっと漂っていたもの。畏怖。寒さ。神秘。その全部がゆっくりと、温かいものへ置き換わっていく。喜びのほうへ。光のほうへ。
広がる響き。明香のフルートも、その響きの中に溶けていく。そして、最後の凱旋。対置された打楽器が、客席をもう一度、取り囲んでいく。ティンパニの咆哮が轟く。そして……最後の音が、空中に、消えた。
しんとした、一瞬。それから、客席で誰かが息を吐いた。拍手がまばらに始まり、すぐに波になった。
明香は、フルートをゆっくりと下ろした。胸の奥が、まだ熱かった。
顔をステージの右側に向けると、打楽器の前で、光輔がこちらを見ていた。目が合った。光輔は満面の笑みで、口の形だけで、何かを言った。明香には、それがなんとなく、読めた。
めちゃくちゃ気持ちよかったですね!
明香は笑いそうになる。あの能天気な入部式の宣言とまったく同じ、子犬みたいな笑顔だった。でも、その手は確かに、曲を導いていた。
明香は、口の形だけで、返した。
うん。
打ち上げが終わって、明香はなんとなく、練習室に寄った。いつもなら、譜面台のあたりに謎子のパーカーやリュックが置きっぱなしになっていた。今日は、何もなかった。
譜面台の上に、一枚、白い紙が置いてあった。明香は近づいた。名刺、だった。
「逆井謎子」と書かれている。読みは振っていなかった。下に、WebサイトのURLが、一行だけ。他には何も書かれていなかった。電話番号も、住所も、メールアドレスも、ない。
明香は、その名刺を譜面台から取り上げて、軽く両手で挟んだ。窓の外は、もう暗くなっていた。名刺を、譜面ファイルの一番最初のポケットに、そっと、しまった。
(また、どこかで)
声に出さずに、そう、つぶやいた。
【この物語を導いた楽曲】
John Mackey『The Frozen Cathedral』
https://www.johnmackey.com/music/the-frozen-cathedral/