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As a Gift

「この曲な、誰かに贈る手紙みたいに弾いたらどうやろねぇ」

(……手紙、ねぇ)

 常野ときの市民交響楽団の練習場。ステージ脇のグランドピアノの前で、岩代いわしろ翔一郎しょういちろうは曖昧に頷いた。指揮台の逆井さかさい謎子なこは、いま自分が落とした言葉の重さに頓着するようすもなく、トコトコとそこを降りていく。初合奏の終わり。客演指揮者として迎えたその人は、譜面台のスコアをぱたんと閉じ、にこっと笑った。

「ほな、また来週ね~」

 岩代は鍵盤の蓋を閉めながら、自分の指の感覚を確かめていた。三か月後の本番に向けた、最初の合奏。指は通っていた。テンポも崩さなかった。客席に並んでいた団員たちは、ぱらぱらと拍手をしてくれた。……なのに、何かが落ち着かなかった。

(手紙、って言われてもな)

 譜面台の上には、バルトーク『ピアノ協奏曲第三番』のソロ譜が広げられたままだった。Allegretto、Adagio religioso、Allegro vivaceの三つの楽章からなる、バルトークが死の床で書き上げた最後の協奏曲。

 その曲を、自分が弾く。


 話が来たのは、半年前のことだった。

 常野市民交響楽団は、今年で創立三十年を迎える。発足は岩代が小学校に上がる前の年。当時はまだ、平日夜の市民会館に集まれる音楽好きが今よりずっと多かった頃だ。立ち上げたのは現在六十代の後半から七十代に差しかかる人たちで、その内の何人かが、今年の記念公演を区切りに現役を退くことを決めていた。

 岩代がこの楽団と縁ができたのは、社会人になってからだ。学生時代に所属していた大学のピアノサークルで、卒業後もピアノを続けたかった岩代に、知り合いが「常野はええとこやで。伴奏とか頼まれることもあるし」と紹介してくれた。それ以来、年に数回の練習に顔を出し、団内の発表会で何曲か弾いた。たまに、小編成のための伴奏ピアノを頼まれた。アマチュアとしてはそれで十分のつもりだった。

 ある日、運営の武井たけいさんから電話があった。

「翔一郎くん、今年の三十周年な、メインの曲、ピアノ協奏曲やることになってん」

「へえ、それは派手ですね」

「ほんでな、ソロ、お願いできひん?」

 岩代は受話器を持ち直した。

「……えっ?」

「客演で来てくれはる先生、面白い人でな。曲はその人が選ぶことになっとるんやけど、運営のみんなと話してるうちに、ピアノ協奏曲がええって話になって。三十周年やし、ピアノで派手にいきたいやんか」

「そりゃ、まあ」

「ほんで、その先生がな、『身内のピアニストで弾ける人いるなら、お願いしたい』言うてはって。常野で名前あがるの、翔一郎くんやから」

 岩代は少し黙った。客演の先生がどんな人なのか、何の曲なのかも、まだ聞いていなかった。

「曲、何ですか」

「バルトークの三番」

 岩代は、また少し、黙った。

「……バルトーク、三番」

「やったことある?」

「いや、聴いたことがあるくらいで」

「ほな、これを機に、どう? 三十周年やし、新しい曲、攻めてみよや」

 武井さんは陽気だったが、岩代の頭の中では、別のことが回っていた。バルトークの三番。澄みきった、祈りに近い響き。最晩年、死の床で書かれた。何人かの大ピアニストが録音を残している。

 技巧の見せ場は、確かにある。でもそれは「指の鳴りで会場を満たす」類の見せ場ではない。岩代がこれまで好んで弾いてきたのは、もっと、強く華麗に響かせる系統の曲だった。鍵盤を叩いた瞬間、ホールの空気がぐっと張る。そういう曲だった。

「……」

「翔一郎くん?」

「すみません、いま、考えてました」

 岩代は、譜面棚の整理されていない一角を、ぼんやり眺めていた。

(三十周年で、バルトーク三番、か)

 断る理由は、見つけにくかった。声をかけてくれているのは、岩代がここで何度か伴奏を弾いてきた、その積み重ねを見てくれている人たちだった。自分のレパートリーから外れているからといって、それで降りるのも、なんとなく違う気がした。

「……やります」

 武井さんは「ほんま!? ありがとう!」と、こちらが恐縮するほど喜んでくれた。

 電話を切り、譜面棚から、使っていなかった楽譜の山を引っ張り出した。一番下の段に、学生時代に買ったきり開いていなかった、バルトーク三番の輸入版が、薄くほこりをかぶって挟まっていた。


 初合奏の翌週、平日夜の練習場。岩代は早めに着いて、ピアノの前に座っていた。

 譜面を開く。第一楽章。冒頭のリズムを、指先でそっと鍵盤に触れて、確かめた。明るくて、素朴で、踊るような。ハンガリーの民謡のリズムが透けている、と、解説書には書いてあった。

 悪い曲ではない。むしろ、よくできている曲だ、と岩代は思っていた。第一楽章の弾むリズム。第二楽章の静かな祈り。第三楽章のフーガ。三つの楽章が、ひとつの祈りに収斂していく。書いた人の手の温度が、鍵盤の向こう側から、まだ伝わってくるような曲だった。

 ただ、自身の指は、その温度にまだ手を伸ばしきれていなかった。

(俺の指、この曲、知らんな)

 学生時代から弾いてきた曲は、もっと別の種類だった。和音を分厚く積み上げ、ペダルを深く踏み、低音を腹に響かせる。そういう曲を、好んで選んできた。指の鳴りで、会場を満たす。練習を重ねれば、ちゃんとそうなる。岩代の手は、その回路を覚えていた。

 バルトーク三番の譜面の上では、その回路がうまく走らなかった。和音は控えめで、フォルテも、激しさというより澄み切るほうへ向いている。何かを掴みに行こうとするたび、譜面のほうが半歩、引いていくような感じがした。

(手紙、か)

 逆井の言葉が、ふと、戻ってきた。

 岩代は手を止めた。手紙と言えば確かに、この曲は手紙のような曲ではあった。死の床にあったバルトークが、妻の誕生日のために書いた曲。妻はピアニストだった。自分が逝ったあと、この曲を弾いて家計の足しにしてほしいという、具体的でやさしい贈り物。

 譜面の上の旋律が、少し、別の輪郭を帯びて見えた。でも同時に、別の薄いざらつきも、首をもたげていた。妻に贈られた曲。受け取る側として想定されているのは女性の指で、女性のピアニストだった。その曲を、男性である自分が、男性の手で弾く。差し出された手紙の宛名に、自分の名前は、書かれていない。

 岩代は譜面を閉じた。

(……まあ、考えすぎだろ)

 いつも自分はそうやって、自分のざらつきに蓋をしてきた。蓋をして、譜面に戻って、指を動かす。それで、これまでうまくいっていた。今回もたぶん、それでいいはず。

 ピアノの蓋を閉じて椅子から立ち上がった時、入り口のほうから、声がした。

「お、もう来とったん?」

 逆井謎子だった。


 逆井は、くたりとしたパーカーにシンプルな黒のズボンを履いていて、胸のあたりには、何かのロゴが小さくプリントされていた。じっと見ていたわけでもないのに、逆井のほうから、

「これな、技術コミュニティでもらったやつ。いっぱいあって、もう、月曜から日曜までこれ着てたら、月の服代ゼロ円で済むねん」

 と笑った。岩代は、はあ、と曖昧に応じた。

「岩代さん、ちょっとだけ、いい?」

「あ、はい」

 逆井はピアノの脇までトコトコと歩いてきて、譜面を覗き込んだ。

「第二楽章のとこ、ちょっと一緒に見たくてね」

 Adagio religioso の冒頭部分を開く。弦楽器の響きが、長く、深く沈み込む。その底から、ピアノが静かに立ち上がってくる。

「ここのピアノ、やさしいけど背筋は伸びてて、でもちょっとだけ曖昧さをほろっと感じるような、そんなイメージやな~」

「曖昧さ、ですか」

「うん。確信しきってないというか、まだ手探りなんやけど、でも、進む方向は決まってる、みたいな」

「……はい」

 譜面の最初の音符を見てみる。確信しきっていない、けれど、進む方向は決まっている。確信していないのに、決まっている。逆井はいつも、二つの相反するものを、平気な顔で並べてくる。

「で、その後の、管楽器とピアノのかけ合いね。ここ、すこし鋭く響くところと、やさしくふわっと響くところのギャップが愛くるしいんよね~」

 愛くるしい。

 その単語を、舌の上で転がしてみる。「愛くるしい」を、自分の指から、出したことがあっただろうか。

「すこし試してみてもらってもいい?」

「あ、はい」

 鍵盤に手を置く。やさしいけど背筋は伸びてて、ちょっとだけ曖昧さがほろっと。鋭く響くところと、やさしくふわっと響くところのギャップ。愛くるしい。

 指は動いた。譜面どおりに音は出た。けれど、出ていく音の輪郭はたぶん、いま逆井に言われた言葉のどれにも届いていなかった。

 逆井は、すこし首を傾げた。否定する顔ではない。批判する顔でもなかった。ただ、何かがあと一歩足りていない、ということを、二人ともぼんやり共有していた。

「……うん。なんか、ええ感じやな」

「……いえ、自分でも、まだ全然」

「気にせんでええよ。まだ、時間あるしね」

 逆井はにっこり笑って、ピアノの蓋を、岩代の代わりにそっと閉めた。

「あのな、岩代さん」

「はい」

「今日、このあと、空いてる?」

「えっと、特には」

「一回だけ、わたしのお気に入りの店、寄ってみぃひん?」

 練習後に、客演指揮者から飲みに誘われたのは、初めてだった。

「……あ、はい」

 断る言葉が、すぐには出てこなかった。


 逆井に連れて行かれたのは、駅から十分ほど離れた、雑居ビルの二階だった。

 階段の前に立ててある看板の、小さな文字に目が留まる。店の名前らしい漢字の下に、かわいらしい大きなふりがなが振ってある。足がほんの一瞬だけ止まりかけたが、逆井は止まらなかった。追いかけるように、急いで階段を上っていく。

「ここね、ママがええ人やねん」

 逆井は店のドアを軽く押した。中からは温かい光、動画サイトのBGM集らしき音楽、そして誰かの笑い声が、すこしだけ漏れてきた。

 ドアをくぐる。見えてきた店内は、思っていたよりずっと、普通の店に感じた。

 カウンター席が大半を占めており、一番奥にテーブル席がある。壁の照明はオレンジに近い色温度で、低く絞られていた。お酒の棚は、過剰にきらきらしていない、落ち着いた揃え方だった。

 客は、テーブル席に女性二人組と男性ひとり、カウンターには男女が並んでいる。その奥には、明るいワインレッドのワンピースを着た人がひとり、グラスを傾けていた。短い髪型と骨格の線で、その人はたぶん男性だろう、と察せられる。誰も、岩代と逆井を特別な視線で見ていなかった。

「あら、なこちゃん、いらっしゃい」

 カウンターの内側から声がした。年齢は三十一、二歳くらいだろうか。落ち着いた佇まい、化粧はあっさりしていて、黒のシャツを腕まくりしていた。逆井に向けたまなざしには、少しいたずらっぽさが滲んでいた。

「今日は、お連れさん?」

「うん。岩代さん。なんか、いま、わたしの指揮にちょっと困ってはるから」

「あら、それは、お疲れさま」

 ママは小さく会釈した。岩代も、慌てて頭を下げる。

「初めての方やんね? うち、いつでも歓迎やから、気にせんとゆっくりしていってね」

 ママの「うち」は、自分のことを指しているのか、店のことを指しているのか、岩代にはどちらとも取れた。たぶん、両方だろう。

 岩代と逆井は、カウンターの端のほうに並んで座った。逆井は慣れた様子でラムベースのカクテルを頼んでいる。岩代は何も決めていなかったので、結局、おしぼりを渡してくれた店員にハイボールを頼んだ。店員はやはり男性のようだった。明るい色のロングヘアを揺らしながら、グラスを慣れた手つきで磨いている。

「ハイボール、お待たせ」

 目の前にコースターが置かれ、グラスが置かれる。冷たくて、薄く汗をかいていた。

「乾杯~」

「……乾杯」

 逆井とグラスをそっと合わせる。一口飲んで、岩代はようやく、すこしだけ肩から力を抜いた。


 しばらくのあいだ、逆井は岩代に何かを話そうとはしなかった。その言葉を待っているふうでもなかった。ただ、カクテルを少しずつ飲み、たまにママと冗談を交わし、店員のウィッグの色を「あ、また変えたん? ええやん、それ」と気軽に褒めた。岩代は少し手持ち無沙汰な感じで、自分のグラスの底を眺めていた。

 隣の席に、いつのまにか四十代後半くらいの女性がひとり、座っていた。仕事帰りなのか、ライトグレーのジャケットを脱いで椅子の背にかけていた。彼女は、岩代がぎこちなくグラスを握っているのを横目で見て、ふっと笑った。

「初めて?」

「えっ。あ、はい」

「私もね、最初の頃、グラスをこんなに固く持ってたわ」

 岩代は、自分の指がグラスのまわりで白くなっているのに、初めて気づいた。

「肩、力抜いてええよ。ここ、別になんも構えるとこやないし」

「……すみません」

 女性は、自分のグラスをくるりと回した。中身は焼酎だった。ロックグラスの底で、琥珀色がゆっくりと揺れている。

「私な、こういうとこに、贈り物もらいに来てるみたいなとこあんねん」

「贈り物、ですか」

「そう。今日はこれや、って自分で決めて、頼むんよ。そんで、出てきた一杯を、なんも考えんとゆっくり飲む。仕事のあと、頭の中ぐちゃぐちゃやんか。自分で選んだもん、自分に飲ませたるねん。そういう時間を、もろてるみたいなもんや」

 頷いた。

「贈り物もろたときって、誰でも下手でええのよ」

 彼女は、岩代のほうを見ないまま、グラスを傾けた。

「下手な受け取り方するから、贈った側も嬉しいんやし。慣れすぎてシュッと受け取られたら、なんかつまらんやんか?」

 自分でも気づかないうちに、ほんのすこしだけグラスを握る力が強くなる。下手で、いい。下手な受け取り方が、いい。

 彼女の言葉は、譜面のほうへ、するりと入っていった。Adagio religioso の冒頭。弦がそっと差し出してくる音を、ピアノが静かに受け取っていく、あの場所。

(受ける側、か)

 岩代は、また、グラスに口をつけた。


 空のグラスを下げに、店員が通りかかった。岩代は、それを、すこしだけ前に出した。

「ハイボール、もう一杯お願いします」

「は~い」

 店員は、岩代の顔をちらっと覗き込んだ。

「あんた、誰かにあげる側ばっかりやってきた顔してるなぁ」

 冗談めかした、軽い声だった。岩代は口をあけたまま、少し、固まった。

「あ、いや」

「ちゃうちゃう、責めてへんよ。あげる側の人、たまに、こうやって息継ぎに来てくれはるねん」

 店員は、岩代の使い終わったお菓子の小皿を、慣れた手つきで重ねた。

「ゆっくりしていってね」

 軽くウィンクして、店員はカウンターの内側へ戻っていった。自分の頬が、すこし熱くなっているのを感じた。

(誰かに、あげる側ばっかり)

 その言葉が、頭の中で勝手に、別のところと繋がっていった。

 岩代は半年ほど前から、マネージャー候補という肩書を、上司から半ば強引に渡されていた。来年度には、正式にそのポジションに就く話になっている。これまでは、自分でプロジェクトを抱え込み、自分でアウトプットを出し、自分で残業して仕上げる側だった。それがいつからか、若いメンバーの仕事を眺め、それを引き取って組み直し、上に渡す。そういう動きを求められるようになっていた。

 ある日の面談で、上司はこう言った。

「岩代さんは、自分で出すのは、もう、だいぶ慣れたよね。これからはメンバーに出させて、それを受け取って、また次に渡す側、やってみてほしいねん」

 その時は、わかったような顔で頷いた。けれど、頷きながら、頭の中では別のことを考えていた。

(受け取って、また次に渡す)

 頷きはしたが、自分の体はまだ動いていなかった。気がつくと、メンバーが書きかけのまま提出してくれた資料を、全部自分で書き直していたりした。「これでもう一度、見てみて」と本人に渡し直す代わりに、自分のほうで仕上げて、上に出してしまう。それがいちばん、安心したからだった。

(あんた、誰かにあげる側ばっかりやってきた顔してるなぁ)

 店員のさっきの一言が、ゆっくりとその場面に重なってきた。


 カウンターの端のほうから、笑い声が聞こえてきた。

 逆井が、店に入った時にはまだいなかった男性の客と、いつのまにか楽しそうに話していた。男性は、四十前後くらいだろうか。リュックを膝に置き、岩代から見ても、明らかにIT業界の身なりだった。

「いやぁ、わたしも、いまの支部、誰に渡せばいいのか、ちょっと悩んでて」

 男性が、ぐび、とビールを飲みながら、ぼやいた。

「そのへん、持続可能な形にしときたいよねぇ」

 逆井が、二杯目に頼んでいたらしいダイキリのステムを、指でつまみなおした。

「主催がひとりで抱え込んでたら、その人が燃え尽きた時点で支部ごと消えるしなぁ」

「ほんまそれ。三年やってきたんやけど、最近、ほんまにしんどい時に、自分以外誰もバトン持ってへんなって気づいて」

「バトンな。バトンを渡しとくの、肝やんな」

「うん。次に引き受けてくれる人を、困らせたないやんか」

 岩代は、自分のハイボールにゆっくりと口をつけながら、その会話の断片を半分だけ聞いていた。バトン、支部、主催、継承。聞き慣れない言葉がいくつか、岩代の頭を通り過ぎていった。

 「持続可能な形にしときたい」「主催がひとりで抱え込んでたら」「次に引き受けてくれる人を、困らせたない」

 そのどれもが、市民楽団のことに聞こえた。三十年前にこの楽団を立ち上げた人たちの顔ぶれが、頭の中でぼんやりと浮かんでくる。

(バトンを、渡そうとしてるんかな)

 手元のグラスは、空に近づいていた。


 逆井が、飲みかけのグラスを、ことん、とカウンターに置く。

「岩代さん、楽しんでくれとる?」

「あ、はい。……ちょっと、頭、動きすぎてるかもですけど」

「動きすぎてるときは、別の話でもしよか~」

 逆井は、店員のロングヘアのウィッグを、目で追った。

「あの子、もとはな、かみで悩んどったらしいんよ。仕事のときは短くしないとって。でもな、夜だけ、あれ、つけるようになって、ほんで、なんか楽になったって」

「……はあ」

「わたしもよく、つけるねん。今日も、こうやって、ね」

 岩代は、逆井を横目で見た。いつもの通りのパーカーで、いつもの通りの黒いズボンで、ダイキリを飲んでいた。初対面の時から漠然と感じていた、逆井の輪郭の柔らかさが、急に納得のいく形に収まった。

「贈る側にも、贈られる側にも、行ったり来たりするんよね、わたし」

 逆井は、ほぼ独り言のように、つぶやいた。

「人にもの渡すのも好きやし、もらうのも、好き。でな、自分で自分にも、渡したり、もろたりするんよ」

 岩代は、何と言ってよいか、わからなかった。

「岩代さん、たぶん、贈る側ばっかりで、長いこと走ってきたんちゃう?」

 逆井は、岩代を見ていなかった。グラスのなかで、ひっそり揺れる液面を見ていた。

「それ、別にあかんことちゃうよ。でも、贈る側は、贈られる側の手の温度、ちょっとは知っとくとね……贈り物、もうちょっと届きやすいやんか」

 岩代は、自分のグラスを両手でくるんだ。冷たかった。冷たさが、自分の指先からゆっくりと、上のほうへ染み込んできた。

「……たぶん、そうですね」

 ようやく、それだけを答えた。逆井は、それ以上、何も言わなかった。


 翌朝、岩代は休みを取っていた。

 マンションの一室、自宅のリビング。テーブルにノートパソコンを開いていた。コーヒーを淹れて傍に置く。検索窓に「Bartók Piano Concerto No.3」と打ち込んだ。トップに出てきたいくつかの記事を、上から順番に読んでいった。

 記事を書いていたのは、ピアニストや音楽学者たちだった。岩代も何度かは目を通したことのある内容だったけれど、今日は、文章の別の場所に目が止まっていた。

 バルトークが白血病と診断されたあとに書き始めた曲であること。妻のディッタは、作曲家でありピアニストでもある人だったこと。バルトークは自分が逝ったあと、ディッタが演奏会で稼げるようにとこの曲を残したこと。譜面の最後、十七小節分は本人が書ききれず、弟子のシェルイが補筆したこと。

 岩代は、コーヒーカップをテーブルに戻した。

(誕生日、か)

 岩代の頭の中で、いくつかの像がゆっくりと重なり始めた。

 病床の夫から妻への、誕生日の贈り物。けれど、それは誕生日の贈り物だけではなかった。妻が、自分が逝ったあとも生きていけるようにという、もっと長い時間に向けた贈り物でもあった。受け取った側が、ただ受け取って終わる種類の贈り物ではなかった。

 受け取った妻は、その後この曲を何度か録音した。それから、別のピアニストたちがこの曲を弾き継いでいった。曲はいまも、世界のあちこちで、誰かの指で鳴っていた。

(受け取って、終わりじゃない)

 岩代は、譜面のことを思った。音符は、譜面の上にしかいない。けれど、その音符の音が鳴った、最初の指。その指が別の指へ、また別の指へと渡されていく。

(贈り物って、たぶん、そういう形で続くもんなんやな)

 岩代は、自分の指を見た。ピアノを弾いてきた、自分の指。これまでそれは、贈る側の指としてずっと走ってきた。鍵盤の上に自分の音を立てる。会場に自分の音を立てる。「華麗に響かせる」「鳴らしきる」。それが自分の手の癖だった。

 けれど、今度の曲は違った。

 今度の曲は本来、女性の指に向けて差し出された、具体的なひとつの手紙だった。差し出された手の温度を、一度、自分の手で借りること。借りて、自分の体の中を通したうえで、もう一度、自分の指から出すこと。それは「妻のディッタになりすます」ということではなかった。なりすますのではなく、ディッタに差し出された手の温度を、自分の身体に一回、通す。通った先で、自分の指から続きを弾く。

(受け取って、運ぶ)

 岩代は、自分の体の真ん中あたりが、すこし暖かくなってきているのを感じた。

 常野市民交響楽団の、設立者世代の顔が浮かんだ。三十年、楽団を続けてきた人たち。今年の本番で、現役を退こうとしている何人かの人たち。あの人たちはいま、まさに贈る側に立っていた。三十年間、自分たちの音を立ててきた人たちが、その手で、楽団を岩代たちのほうへ差し出そうとしていた。

 岩代たちは、それを受け取る側だった。

 受け取って、それで終わりではなかった。受け取った先には、岩代たちの手から次の世代へ渡していく、長い、まだ見えない道が続いていた。

(バトンを渡しとくの、肝やんな)

 昨夜、カウンターの端で逆井が言っていた言葉が、ふっと戻ってきた。コミュニティの話だ、と思って聞き流しかけていたけど、それは楽団の話で、譜面の話で、それから岩代の会社の話でもあった。

 メンバーに出させて、受け取って、それをまた次に渡す。

 上司の言葉。それを頷きながら、まだ自分の体が動かしきれていない、自分の癖。

 岩代は、ノートパソコンの画面を閉じた。


 残りの三週間、岩代の指は、毎日少しずつ、譜面の中の別の場所を手繰るようになっていった。

 最初の頃に書き込んだ、強く華麗に鳴らしきるための線。それは譜面の上に、まだあった。ただ、その線の上をなぞる手つきが変わっていった。線をなぞっているのではなく、譜面の外側から漂ってきた何かを、線の上にそっと置いていく感覚に近づいていった。

 Adagio religioso の冒頭。岩代の指は、そこを何度も何度も繰り返した。やさしいけど背筋は伸びてる。ちょっとだけ曖昧さが、ほろっと感じられる。逆井の言葉が、徐々に岩代の指の中に滲み始めた。

 けれど、本番までの最後の数日、岩代はもう一度行き詰まった。

 指は通っていた。テンポは崩れていなかった。なのに、何かが、まだ自分のものになっていない感じ。鳴らしている自分の音と、譜面の外側から漂ってくるもの、その二つが、まだつながっていない感じが残っていた。

(足りない、けど、何が)

 その「足りなさ」の正体が掴めなかった。岩代は、同じパッセージを何度も弾き直した。何度弾き直しても、足りなかった。

 夕方、練習場の廊下で、岩代は、ちょうど外から戻ってきた逆井とすれ違った。

「お疲れさま」

「あ、お疲れさまです」

 岩代は、すれ違いざまに、つい口に出してしまった。

「指は通ってるはずなんですけど、まだ手応えがなくて」

 逆井は、立ち止まった。少し首を傾げた。

「……いま、誰のほう向いて弾いてはるん?」

 岩代は、虚を、突かれた。

「……えっ」

「弾いてる時、岩代さんの体と心は、どっち向いてる?」

 岩代は、しばらく考えた。鍵盤と、自分の指。自分の音。譜面の上の音符。Adagio religioso の譜面の、自分が苦手としていた数小節。考えながら答えた。

「……鍵盤と、自分の音と、譜面のほう、ですかね」

 逆井は、ふっ、と笑った。

「やねぇ」

 逆井は、廊下を歩き出しながら、肩越しにこう置いた。

「贈り物って、相手のほう向かんと、届かへんのちゃうかな~」

 逆井は、そのまま合奏室のほうへ歩いていった。岩代は、廊下にひとり残された。

 譜面ファイルが、腕の中で、急に重たくなった気がした。


 本番当日。会場は、市内の大ホール。客席は、中規模のホールいっぱいに人が入っていた。

 控室で、岩代は、シャツの袖をもう一度整えた。スーツのジャケットの下、白いシャツ。袖口のボタンが、すこし冷たい。逆井が本番用のスーツを、いつものリュックから引っ張り出して、袖を腕まくりしていた。逆井のスーツは、いつもの逆井よりも輪郭が、ぴしっとしていた。

「岩代さん」

「はい」

「楽しんで、ね」

 逆井は、それ以上、何も言わなかった。岩代は、頷いた。

 前の曲が終わって、ステージ転換のあいだ、岩代は袖の暗がりに立っていた。客席の前列中央あたりに、いつもの練習場では見ない年配の人たちが、いくつかの席に並んで座っていた。開演前、ロビーで挨拶したとき、武井さんが小声で教えてくれていた。三十年前に楽団を立ち上げた人たちだ、と。岩代が見ても、すぐにそれとわかった。

 ステージのライトが上がる。岩代は、舞台へ歩き出した。グランドピアノの脚の前で、客席に向かって軽く頭を下げた。拍手が鳴った。岩代は、椅子に腰をおろした。鍵盤に両手を置いた。

 指揮台の逆井と、目が合った。逆井は、ほんのすこし首を傾げて笑った。

 岩代は、息を吸った。


 第一楽章 Allegretto。最初の弾むリズム。

 岩代の指は、最初の数小節、いつもの癖のほうへ走りかけた。指の鳴りで、ホールを満たそうとしてしまう癖。その癖が出かけたところへ、オーケストラの木管が、横から、ふっ、と合いの手を入れてきた。岩代の手は、すこし引いた。

(……渡す)

 ピアノが最初のフレーズを差し出して、木管が、それを軽く受ける。金管が、別の音色ですこし変えて戻してくる。岩代の指は、それをまた、自分のところで受けた。

 弾き切るのではなく、渡しては受け取る。渡しては受け取る。弦・木管・金管とのやりとりを何度か交わしたあと、岩代の体は、自然とその呼吸の中に入っていた。

 最初の「華麗に鳴らしきる」癖は、あいかわらず岩代の指に住んでいた。けれど、住んでいるその癖が、いまは応酬のリズムの中に、おとなしく収まっていた。岩代の指は、自分の音を立てるためだけには、もう動いていなかった。

 第一楽章の、最後の和音がホールに解ける。

 息をひとつ吐いた。


 第二楽章 Adagio religioso。

 弦のコラールが、まず、深く入ってきた。客席の空気が一段、沈み込むのが感じられた。譜面は見ていなかった。鍵盤を見ていた。

 弦が、ゆっくりと上昇したあと、低く落ち着いていく。

 息を整える。最初の音。

 するすると立ち上がる、ピアノ。やさしいけど、背筋は伸びてる。ちょっとだけ曖昧さが、ほろっと、ある。

 指は、譜面の上の線をなぞらなかった。譜面の外側から漂ってきていた何かを、息に乗せて、空中に置いた。

 Adagio religioso の中間部。管楽器が入ってくる。やわらかいフルート、温かいオーボエ、ほんのすこし寂しさを含んだクラリネット。すこし鋭く響く瞬間と、ふわっとふくらむ瞬間が、交互に行き来する。ピアノを弾く指も、その間を行き来している。

「夜の音楽」と呼ばれているところだった。バルトークが、自然の中の夜の音をたくさん書き残した、その語彙が、ぎゅっと詰まっている場所。木管の、鳥の声を模倣する、断片的な音。フルート、ピッコロ、オーボエ。鳥たちが、別々の枝の上から、互いを軽く呼んでいた。

 その瞬間、何かが、ふっ、とほどけた。譜面の外側から漂ってきた何か。それを、初めて素直に掬い取った。

 遠い病床から、誰かが、別の誰かに向けて差し出した手紙。その手紙の上を、何人もの手が通っていった。自分の前に、たくさんの温度が、薄く層をなして残っていた。その温度の上に、自分の温度も、そっと重ねる。重ねたうえで、自分の指から、その先へと続きを書いた。

 ピアノは、客席に向かって鳴っていた。客席の前列、武井さんが教えてくれた、設立者世代の人たちのほうへ。三十年、この楽団を、自分たちの手で続けてきた人たち。いま、その手から、楽団を自分たちのほうへ差し出そうとしている人たち。

 ピアノは、その人たちに向かって鳴っていた。

 そしてピアノは、その人たちの背中の向こう側にも鳴っていた。客席の、もっと奥のほう。客席のさらに向こう側。まだ顔も知らない、これから先で、楽団を続けていく人たちのほうへ向かって。

 指はもう、自分の音を立てるためには動いていなかった。

 受け取って、運ぶための指に、なっていた。

 木管とピアノが、ゆっくりと、もう一度、コラールへ戻っていく。

 目をすこし伏せていた。指が、譜面のほうを、ちゃんと追っていた。頭の中だけが、別のところを、ゆっくりと流れていた。

 会社の若いメンバー。こっそり書き直してしまっていた、半分仕上がりの資料。あれはたぶん、メンバーからの、贈り物だった。書きかけのまま手渡されて、また書き手の手に戻り、その先へ続いていくはずの贈り物。それを手元で止めて、最後まで自分の手で書いてしまっていた。

(受け取って、運ぶ)

 受け取ったら、その先へ運ぶ。運ぶ時には、自分の手の癖を、そこにすこし足してもいい。けれど、自分の手で止めてしまっては、いけない。続いていかない贈り物は、贈り物の一番大事な部分を、たぶん、失う。

 Adagio religioso の最後の音が、空中にほどけた。

 ホールが、しんとなった。


 第三楽章 Allegro vivace。

 オーケストラの、軽快なリズム。指は、第二楽章とは別の人格のように跳ねた。フーガの追いかけっこ。一つの主題をピアノが置けば、弦が追いかけて、管が答え、またピアノが戻ってくる。フーガの主題を、自分のところでいったん預かって、そして、別の声部に、はっきりと渡した。渡したあと、別の声部が戻してくれる。受け取って、また別のところへ渡す。

 譜面は、ずっと追いかけっこの形で書かれていた。バルトークは、たぶん、そういうことを書きたかったのだろうな、と弾きながら思った。一人で完結する追いかけっこは、ない。誰かが追いかけてくれて、初めて、追いかけっこは成立する。

 曲が、終わりへ向かって駆け上がっていく。指は、ホールを自分の音で満たそうとはしなかった。自分の音を置いたその先で、オーケストラの音とひとつになって、ホール全体が満ちていく。そこに、自分の指を預けた。

 いちばん最後の十七小節は、バルトークの手では書ききれなかった場所だった。残りは、弟子が引き継いで書いた。

 いま鳴っているのは、その、引き継がれた音だった。書ききれなかった人の手から、引き継いだ人の手へ。譜面の上から、いくつもの指を通って、いま、ここへ。一度は途切れたはずの音が、それでも、ホールの空気を震わせていた。

 受け取って、運ぶ。そして、まだ顔も知らない、これから先の誰かの指へ、渡していく。

 最後の、和音。

 手が、鍵盤から上がった。


 しんとした一瞬があって、それから客席で、誰かが息を吐いた。拍手が、客席の前のほうから、波のように広がっていった。

 岩代は、椅子から立ち上がった。客席に向かって頭を下げる。

 指揮台の逆井と、目が合った。逆井は、軽く片目を細めて笑った。

 客席の前列。三十年前に楽団を立ち上げた人たちの並びの中で、ひとりの男性が、岩代の目をじっと見ていた。目が合うと、その男性は、ゆっくりと頷いた。少しだけ、口元がほころんでいた。岩代も、頭を下げた。

 ピアノの脇に、いつのまにか、花束が置かれていた。


 終演後、岩代は、控室へ戻っていく廊下で逆井を探した。

 ステージ袖から控室への通路をひとつひとつ覗いて歩いてみる。でも、逆井の姿も荷物も既になかった。岩代は、誰にともなく、肩をすこしだけすくめた。

(……早いな)

 リハーサル室の前を通りかかる。中に入ると、ステージで使った譜面台が何台か運び戻されていた。岩代のピアノ譜は、ピアノの蓋の上に、誰かが丁寧に戻しておいてくれていた。

 譜面の表紙の上に、白い名刺が一枚、置かれていた。

 岩代は、近づいた。

「逆井謎子」と印字されていた。読みは、振っていなかった。下に、Web サイトの URL が一行だけ。それ以外、何も書かれていなかった。電話番号も、住所も、メールアドレスも、ない。

 岩代は、スーツの内ポケットから革の名刺入れを取り出した。会社で配っている、ありふれた紺色の名刺入れだった。岩代は、その一番手前の、新しいカードを差し込むスリットに、逆井の名刺をそっとしまった。

 窓の外は、もう、すっかり夜だった。

 (あの店に行けば、また会えるか)

 名刺入れを、もう一度、内ポケットに戻した。


【この物語が受け取った楽曲】

Béla Bartók『Piano Concerto No. 3, Sz. 119』