Meaning in the Numbers
「この曲はね、夏が、いちばん最後にしか来うへんのよ」
(夏が、来ない……?)
青葉市教育会館の小会議室。窓の外で、葉桜が風に揺れていた。平木恵は、長机の向こうに座るその人の言葉を、うまく飲み込めずにいた。逆井謎子。今年の青葉市中学校総合文化祭に、外部から助言役として加わるという、流しの指揮者だった。くたりとしたパーカーの胸に、丸いロゴが小さく入っている。何かのサービスのマークらしいが、恵の知らないものだった。年齢はよくわからない。
逆井は、『翠風の光』と表紙に書かれた分厚いスコアを、長机の上でゆっくりと開いた。
「四つの楽章があってね。最初は、こう、悲しいの。そのあとも、なんやろ……たどり着けへん感じが、ずうっと続くんよね。それで、いちばん最後の楽章で、やっと、夏が来る」
恵は手元のレジュメに目を落とした。青葉市中学校総合文化祭、吹奏楽演奏発表会。市内の中学から希望者を募って合同バンドを組み、何曲かのプログラムを、曲ごとに担当の顧問が指揮する。コンクールではない。賞も、順位も、つかない。半年かけて練習して、市民ホールの舞台で一度だけ演奏する。
逆井は、外部から招かれた助言役のひとりだった。ほかにも何人かいて、それぞれが何曲か候補を持ち寄り、どれをプログラムに入れて、誰が振るかを、運営の顧問たちと相談しながら決めていく。そのなかで逆井が持ち込んだのは、この『翠風の光』、ただ一曲だった。
「それでね」
逆井は、スコアから顔を上げて、まっすぐ恵を見た。
「これ、平木先生に振ってもらえたらなぁ、って思てるんよ」
(……わたしが?)
恵は、自分を指さしそうになった手を、机の下で止めた。
「あの……どうして、わたしなんでしょう。うちの部は、そんなに上手いわけでも」
「平木先生な、部の記録、めっちゃきっちりつけてはるやろ。出席も、基礎合奏も、ひとりひとりの音域も。ああいうの、ええなぁと思てん」
恵は、言葉に詰まった。確かにつけている。毎回の練習のあと、チューナーの針の振れ、メトロノームとのテンポのずれ、その日に鳴っていた楽器の数。記録の行は、一年で千を超えていた。
恵は、吹奏楽部の顧問になって、三年目だった。指揮台に立つたびに、自分が「良い」と思った音が本当に良いのか、いつも確信が持てなかった。だから、測れるものを測ってきた。針が真ん中で止まれば、合っている。数字が揃えば、進んでいる。そう思うことで、なんとか立っていられた。
「自信、ないです」
気づけば、そう口に出していた。
「この曲、すごく難しいですよね。グレード、五です。うちの生徒たちには、たぶん」
「うん、難しい」
逆井は、あっさり認めた。それから、いたずらっぽく笑った。
「でもな、自分で丸つけて集まってくる子らやろ。ちょっとだけ背伸びかもしれへんけど、やらせてあげたいやん?」
恵は、その理屈をうまく受け取れないまま、スコアの表紙を見ていた。翠風の光。最後にしか来ない、夏。
並河颯太は、配られた希望調査の紙を見下ろしていた。
青葉市立南中学校、吹奏楽部の部室。総合文化祭の合同バンドで演奏する曲の一覧が、十曲ほど並んでいる。やりたい曲に丸をつけて出す。複数校から希望者が集まって、曲ごとのチームになるらしい。
颯太はバスクラリネットを吹いている。三年生。中学最後の、文化祭だ。
(どうせなら、いちばん目立つやつがいいよな)
一覧の中で、小さく「メイン」と注記がついている曲が『翠風の光』だった。演奏時間がいちばん長くて、プログラムの真ん中に置かれる、いわば看板の曲。希望が集まりそうだ、と顧問の平木先生が言っていた。
颯太は、メイン、の三文字を指でなぞった。
バスクラは、地味だ。颯太はそう思っている。低い音で、ずっと下を支えている。メロディはめったに回ってこない。演奏会で、客席の誰かが「あのバスクラの子、よかったね」なんて言うのを、颯太は一度も聞いたことがなかった。フルートやトランペットやサックスにはソロがあって、拍手をもらえる場所がある。バスクラには、それがなかった。ないと思っていた。
「並河さん、それ」
平木先生が、横から紙を覗き込んできた。
「『翠風の光』の二楽章、バスクラに、ちょっといいとこあるよ。オーボエと二人だけになる場所」
「……二人だけ?」
「うん。まわりがみんな休みで、オーボエと、バスクラだけ。短いけどね」
颯太の中で、何かが、ぴくりと動いた。
(二人だけ。まわりが、休み)
それはつまり、聴こえる、ということだ。低い音に埋もれずに、自分の音がホールの空気の中に立つ。そこではじめて、客席の誰かが自分の音を聴く。
颯太は、『翠風の光』の欄に、迷わず丸をつけた。丸の線が、いつもよりすこしだけ、濃くなった。
(ここでなら、目立てる)
合同バンドの最初の合わせは、五月のはじめだった。新緑が、いちばんまぶしい頃だった。
会場は、市の青少年センターの音楽室。土曜の午前、あちこちの中学から、ケースを抱えた生徒が集まってくる。同じ制服どうしが固まって、知らない制服とは目も合わせない。けれど、椅子は楽器の並び順だ。颯太は、南中の仲間から離れた低音の列に、自分のピアノ椅子を見つけて座った。隣に並んだのは、顔も名前も知らないアルトクラだった。楽器を組む手つきも、リードを湿らせる間合いも、颯太のとはすこしずつ違う。同じ曲をやるのに、息の合わせ方が、まだどこにもなかった。『翠風の光』のチームは、五十人を超えていた。ひとつの学校だけでは、とても組めない大きな編成。だから、こうして複数校から、人が集まっている。指揮台には、南中の平木先生が立つ。
最初の通しは、ひどいものだった。
一楽章の頭から、音がばらばらに散らばった。隣で吹いている、知らない学校のアルトクラと、息が合わない。颯太のバスクラも、自分の楽譜を追うだけで精いっぱいで、まわりがどう鳴っているのか、ほとんど聴こえていなかった。
二楽章。颯太がずっと気にしていた場所が、ある。
オーボエが、長い音をひとつ、置く。その下で、クラリネットたちがフレーズを順ぐりに受け渡していく。クラリネット、エスクラ、アルトクラ、そしていちばん最後に、颯太のバスクラへ回ってくる。そこから先は、オーボエと、二人だけ。
オーボエを吹いていたのは東中の生徒で、吉上結衣、と名乗っていた。背の高い、おっとりした感じの子で、自分のソロのことを、特別なことのようには話さなかった。出番を待つあいだ、小刀でリードの先をすこしずつ削っては唇に当てて、息を通して確かめていた。その手つきだけが、やけに丁寧だった。目立つかどうかより、いい音が出るかどうかのほうに、ずっと関心があるみたいだった。
颯太は、その「二人だけ」の数小節を、何度も頭の中で再生していた。まわりが全部、休み。聴こえるのは、オーボエと、自分のバスクラだけ。ここで、自分の音は、ちゃんと立つ。
ティンパニのところには、西中の白井壮という男子がいた。ティンパニは、出ずっぱりではない。けれど、ここぞという場面のたびに、その一打が、曲の底をぐっと動かす。そのたびに、空気が変わる。颯太は、その音を聞くたび、内心すこしだけ、うらやましかった。
(いいよな、ティンパニは。ここぞで、目立てて)
音楽室の、ティンパニとはちょうど反対の端には、マリンバが置いてあった。叩いているのは北中の間宮歩という女子だ。ふだんは眠そうにしている子だった。なのに、ある楽章では、ずいぶん長く、休みなく細かい粒を転がしつづけていた。本人はどこを見るともないのに、手だけが、別の生きもののように動いている。颯太には、その音がいつ始まっていつ終わるのか、よくわからなかった。気づけば鳴っていて、気づけばもう、次へ移っている。颯太は、特に気にも留めなかった。
三回目の合わせから、逆井が来るようになった。六月に入って、外は梅雨のにおいがしはじめていた。
平木先生が指揮台に立って、逆井はその斜め前の、低い椅子に座る。両手を膝にのせて、目を閉じて、聴いている。ときどき、「ん」と、機嫌のいい猫みたいにうなずく。
ある時、逆井がふわりと立ち上がって、「ちょっとだけ、いい?」と平木先生に断り、指揮台の横に並んだ。自分でも軽く手を動かして、振ってみせる。
「ここ、こういう風に、ちょっとだけ前のめりに行く感じはどうやろ。……平木先生、いまの、どう感じはった?」
「……少し、走りませんか」
「お、走るか。走るなぁ。ほな、もうちょっとだけ抑えて……このへん?」
二人で、ああでもない、こうでもない、と棒を振り合っている。颯太には、平木先生が逆井に教わっているのか、逆井が平木先生に訊いているのか、よくわからなかった。どっちもが、半分ずつ、この曲を形にしているように見えた。
休憩中、逆井が颯太のところへ、トコトコとやってきた。
「並河さん、やんね。バスクラの」
「……はい」
「あんな、ちょっと訊いていい? 並河さんのその低い音な、もし一小節だけ、ふっと消えたら……上の音って、どこに立つんやろねぇ」
颯太は、質問の意味を掴みそこねた。
「……どこ、って」
「うん。メロディの音。あれ、何の上に乗っかってると思う?」
「……べつに、変わんないと思います。低音なんか、どうせ、誰も聴いてないし」
言ってから、すこし棘のある言い方になった、と思った。でも逆井は、気にするふうもなく、「ふぅん」と笑った。
「そうかなぁ。わたしは、聴いてるけどなぁ」
そう言ってまた、トコトコと離れていった。颯太は、その背中を、なんとなく目で追った。
逆井は音楽室の反対側まで行くと、こんどはソプラノサックスの子の前に、ぺたんとしゃがみ込んだ。颯太の知らない学校の子だ。あの子には、ソロがある。颯太とは反対の、いちばん目立つ場所を持っている子だった。逆井は、その子にも、颯太にしたのと同じ調子で、何か小声で訊いているらしかった。サックスの子が、すこし困ったように、首をかしげる。
(……なんだ。誰にでも、行くのか)
そう思うと、なんだか、ばつが悪かった。
恵は、その日の練習のあと、音楽室の隅でノートパソコンを開いていた。
一楽章、頭のテンポのばらつき。二楽章、オーボエとバスクラの受け渡しの、入りのズレ。五十人ぶんの、今日の数字。一日じゅう針の振れを目で追ってきたせいで、目の奥が、じんと疲れていた。それでも、数字を打ち込んでいくと、すこしだけ息がつけた。数字は、嘘をつかない。揃っていないところが、はっきりとわかる。わかれば、次に直せる。
「平木先生、熱心やねぇ」
いつのまにか、逆井が隣の椅子に座っていた。
「……これくらいしか、できないので」
「さっきの二楽章な。わたし、ちょっとだけ、ぞくっとした瞬間があってん」
恵は、手を止めた。
「どこ、ですか」
「うーんとね、どこやったかな。小節でいうと……わからへんわ」
戸惑った。どこ、と特定できないものを、どう記録すればいいのか。針が真ん中で止まったのか、止まらなかったのか。それがわからないものを、恵は、扱ったことがなかった。
「数字に出ない手応えって……あると思いますか」
逆井は、すこし嬉しそうに首を傾げる。
「あると思うで。ていうか、わたしはな、そっちのほうばっかり、追いかけてる気もするわ」
「……わたしには、まだ、ちょっと」
正直に、そう答えた。逆井は「やんねぇ」と、否定でも肯定でもない相づちを打って、それ以上は、何も言わなかった。
梅雨が明けて、外には、もう夏が来ていた。けれど、颯太の二楽章は、いつまでも、たどり着かないままだった。とりわけ、あの「二人だけ」の場所が、ものにならなかった。颯太は、そこだけを、別の日に何度もさらった。
オーボエの吉上と、バスクラの颯太。指揮の前で、二人だけが音を出す。
颯太は、力んだ。ここで、聴かせる。はじめて、自分の音を客席に届ける。そう思うほど息が強くなり、音の頭が前に出た。
数小節で、吉上のオーボエが、ふっと止まった。
「ごめん、いまの、わたし、ついていけなかった」
吉上は、責めるふうでもなく、そう言った。
「並河くんの音、すごく前に出てて。わたし、合わせにいこうとすると、置いていかれちゃって」
(前に出て、何が悪いんだよ)
颯太は、むっとした。せっかくの、二人だけの場所だ。ここで前に出なくて、どこで出る。
「……すみません。もう一回、いいですか」
もう一度、吹いた。さっきより、もっと、はっきり。もっと、前に。
吉上のオーボエは、颯太の勢いに取り残されて、音の輪郭が、ぼやけた。
その日の合わせが終わって、颯太は、楽器を片付ける手がいつもより乱暴になっているのに気づいた。
二楽章の、あの場所。何度やっても、吉上とかみ合わない。自分が前に出れば出るほど、オーボエが引いていく。聴かせたいのに、聴かせようとするほど、遠ざかっていく。
ティンパニの白井が、楽器に布をかけているのが目に入った。布をかける前にヘッドの上に手のひらをのせて、鳴り終わった音の名残を確かめるみたいに、しばらくそうしていた。颯太は、なんとなく、声をかけた。
「白井って、いいよな。ティンパニ」
われながら、ひがみっぽい言い方だった。白井は手を止めずに、すこしだけこちらを見た。
「……いい?」
「だって、ここぞってとこで、ドンって入って、目立てるじゃん。最後とか、すげえ持ってくだろ」
白井は、しばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。
「ここぞで入るには、ずっと、聴いてないと」
「……聴いてる?」
「叩く時も、叩かない時も。みんなが、いま、どこにいるのか。それがわかってないと……自分の音を、置く場所、間違える」
白井は、手を動かしながら、続けた。
「四楽章のいちばん終わりとか、特に。あそこで一音でもずれたら、全部、台無しになるから」
颯太は、何も言い返せなかった。ここぞで、ドンと目立つ。その一発は、ずっと全体を聴いている時間の、いちばん上に、乗っているらしかった。
楽器をケースに納め終わったとき、音楽室の反対の端から、まだ小さくころころと音が鳴っているのに気づいた。間宮だった。みんなが帰りはじめているのに、ひとりマリンバの前に残って、三楽章のあのずっと続くところを転がしている。颯太は楽器を抱えたまま、なんとなく近くまで行って声をかけた。
「ずっと、それ、やってるよな。疲れない?」
間宮は、手を止めずに、すこし考えた。
「……止めるほうが、こわいかも」
「こわい?」
「うん。これ、わたしが止めたら、たぶんみんな、走ったり、もたついたりする。だから、ずっとおんなじ速さで、転がしてるだけ」
間宮は、それだけ言うと、また自分の音の中に戻っていった。颯太には、それのどこが面白いのか、よくわからなかった。三楽章の頭は、間宮ひとりで始まる。あれもソロといえばソロだ。なのに間宮は、目立とうなんて、思ってもいないみたいだった。ただずっと、おんなじことをしている。
(変なやつ)
そう思いながらも、なぜかそのころころという音は、颯太の耳の奥にすこしだけ残った。
夏休みに入っても、合わせは、隔週で続いた。その繰り返しのなかで、颯太は、二楽章のあの場所のすこし手前を、はじめて意識して聴いた。
オーボエが、長い音を、ひとつ置く。その下を、フレーズが流れてくる。クラリネット、エスクラ、アルトクラ。すこしずつ、低い音へ、受け渡されて、受け渡されて、自分のところへ来る。
(……これ、ひとりで始まる音じゃないんだ)
颯太のバスクラのフレーズは、誰かから渡されたものの、続きだった。前の誰かが書き出した線を受け取って、その先を自分が引く。そして、その先で、オーボエと二人になる。
ほんの一瞬、力むのを、忘れた。渡されたものを、そっと次へ送るように、吹いた。
吉上のオーボエが、その上で、すうっと、伸びた。
颯太は、はっとした。けれど、次の小節で「いまの、いい音だった、もっと聴かせなきゃ」と思った瞬間、息が前に出て、音が硬くなった。吉上のオーボエが、また、揺れた。
(……なんだ、いまの)
掴みかけた何かは、掴もうとした瞬間に、するりと逃げた。
恵は、その合わせを、指揮台の上から見ていた。
数字でいえば、その日のバスクラと木管の受け渡しは、いつもより、むしろ悪かった。入りは合っていない。テンポも、わずかに揺れた。記録には、マイナスがつく。
なのに、二楽章のあの数小節で、指揮棒を持つ手が一瞬、止まりそうになった。バスクラがフレーズを受け取って、オーボエと二人になる場所だった。
うまく言えない。揃ってはいない。でも、何か、良かった。
斜め前の椅子で、逆井が、目を開けた。恵のほうを見て、にっこりと笑う。
「いまの、良かったやろ」
恵は、答えられなかった。良かった。確かに、そう感じた。でも、どこが良かったかと訊かれたら、示せない。記録には、何も、書けない。
「……どこが良かったのか、わたしには、わからなくて」
「うん。わたしにも、ようわからん」
逆井は、楽しそうだった。
「わからへんけど、確かに、在ったやろ。……それ、何やったんやろね」
恵は、手元の記録用紙に目を落とした。そこに並んだ数字のどこにも、いまの「良さ」は、書かれていなかった。
本番まで、あと二週間を切った。十月の終わり、木々が、いっせいに色を変えはじめていた。
颯太は、二楽章のデュオを、まだ自分のものにできずにいた。
中間点で掴みかけた、あの「渡されたものを送る」感覚は、本番が近づくほど、するすると遠ざかっていった。焦りが、また「目立たなきゃ」を呼び戻す。最後の合同練習。デュオの場所で、颯太は、また、力んだ。聴かせたい。半年やって結局これか、と客席の誰にも思われたくなかった。
吉上のオーボエが、また、行き場をなくして、揺れた。颯太は、唇を噛んだ。
休憩のあいだ、逆井が、颯太のところへ来た。
「並河さん、ちょっと、訊いていい?」
「……はい」
「並河さんはな、いま、吉上さんの音、聴いてる?」
颯太は、言葉に詰まった。聴いている。……いや、聴いていただろうか。自分が、どう聴かせるか。そればかり、考えていた気がする。
「あの場所な、二人だけやろ。二人だけ、ってことはな」
逆井は、すこし声を落とした。
「片方が、もう片方を、ちゃんと聴ける、ってことでも、あるんよ」
颯太は、何も言えなかった。聴く、という発想は、なかった。
「ほな、わたし、ここまでやからね」
「……えっ。本番、来ないんですか」
「もちろん行くで~。客席で、聴くの。いちばんええ席、とっといてくれはってん。ほんま、ありがたいことやわ」
逆井は、ひらひらと手を振って、離れていった。
恵は、最後の合同練習のあと、ひとり、スコアを見つめていた。
数字は、半年で、見違えるほど良くなっていた。一楽章の入りのばらつきは、ほとんど消えた。テンポの揺れも、許容の範囲に収まっている。記録の上では、この合同バンドは、もう十分に「仕上がって」いた。
なのに、恵には、何かが足りない気がしてならなかった。それが何なのか、どの数字を見ても、わからない。直すところがもう見つからないのに、まだ、欠けている。その感覚をどう扱えばいいのか、恵は、わからなかった。
逆井が、隣に来た。
「平木先生、ええ顔してへんね」
「……あと、何を直せばいいのか、わからなくて。数字は、もう、悪くないんです。なのに、足りない気がして。……すみません、こんな、あいまいなこと」
逆井は、首を横に振った。
「あいまいで、ええんよ。むしろ、それやと思う」
恵は、顔を上げた。
「平木先生な、あの子らが、いま、何を感じて吹いてるか、訊いたこと、ある?」
恵は、答えられなかった。測ったことは、ある。でも、「何を感じているか」を訊いたことは、一度もなかった。測れないから、訊いてこなかった。
「数字はな、平木先生が、いっぱい見てくれてる。それは、ほんまに、すごいことなんよ」
逆井は、にっこりと笑った。
「あとはもう、数字に出えへんとこを、ちょっとだけ、のぞいてみるだけや。こわくないよ。ただ、訊いてみるだけ」
そう言って、逆井は、立ち上がった。
「わたしは、ここまで。本番は、客席で、楽しみにしてるね」
恵は、その背中を見送った。手元のスコアの、数字の書かれていない余白が、いつもよりずっと、広く見えた。
本番の日が、来た。
会場は、青葉市文化センターの大ホール。客席は、千三百くらい。賞も順位も、つかない発表会。それでも、半年やってきたものを人前で鳴らすのは、一度きりだった。
颯太はステージ袖で、バスクラのリードを、もう一度だけ湿らせた。指先が、すこし冷たい。
幕の隙間から、客席をのぞいた。前のほうの、いちばん良さそうな席に、見覚えのあるパーカーが座っていた。逆井だ。膝の上にプログラムを広げて、待ちきれない、というふうに、何度もページをめくっている。こちらには、気づいていない。その楽しそうな様子を見ていると、指先の冷たさが、すこしだけましになった。
ステージに五十人が並ぶ。指揮台に、平木先生が立った。颯太の席は、真ん中よりすこし後ろの、低音のあたり。目立たない場所だ。いつもの場所。
平木先生の手が、上がる。客席が、しんとなった。
一楽章が、始まった。
悲しい音楽。ただ、静かに沈むような悲しみでは、なかった。
冒頭から、金管が、嘆くように、ほえた。ホルンが厚い和音を唸らせ、その上をトランペットが、全員ひとつの音にそろえて、まっすぐ突き刺してくる。悲しみは、こらえる間もなくあふれ、ぶつかってくる。テンポ自体は、そう速くない。けれど、拍子は、ひとところにとどまらなかった。三つ、五つ、七つ。足の下で、拍の数がつぎつぎに入れ替わる。気を抜けば、足場ごと、もっていかれそうになる。颯太のバスクラは、その揺れる拍の底を、一歩ずつ踏みしめていた。低い音で、不安定な土台を、下から押さえつける。一音でも置きどころを間違えれば、ぜんぶ、崩れてしまう。颯太は、楽譜にしがみつき、息を送りつづけた。
ティンパニが、強く、鋭く、打ちつけた。白井だ。一打ごとに、音楽の底が、突き上げられる。嘆きを、煽るような連打だった。その荒々しさのまんなかでも、白井は、いつもの白井だった。叩く時も、叩かない時も、ずっと聴いている。荒れる流れの底で、白井のティンパニと颯太の低音は、同じ地面を、一緒に踏み鳴らしていた。
その底のうえで、悲しい旋律が千切れそうに歌っているのが、ふと、聴こえた。一小節だけ、もし自分が消えたら、上の音は、どこに立つんやろねぇ。あの日の逆井の問いが頭をよぎる。答えは、まだ、わからない。それでも、この底がなかったら、あの旋律は、ここまで激しく嘆けない。そんな予感だけが、胸の奥に、残った。
やがて、嵐のような一楽章が、鳴りやむ。まだ、夏は来ない。二楽章へ、三楽章へ。最後の夏まで続く長い道のりの、いちばん底の地面のところを、颯太は、支えていく。
二楽章。あの場所が、すこしずつ近づいてくる。
嵐が引いたあとのふしぎな静けさのなかから、ソプラノサックスが歌いはじめた。颯太の知らない、あの子のソロだ。練習のとき、逆井がぺたんとしゃがんで、何か訊いていた、あの子。細くて、まっすぐで、よく通る音が、静けさの上にすっと立ちあがる。やっぱり、目立つ。颯太は、そう思いかけて、ふと、止まった。そのソロの下で鳴っているのは、はじめは、ピアノと、弦バスだけ。静かな水面のように、あの子の音を、浮かべている。やがて、颯太のバスクラにも、出番が来た。真ん中よりすこし低めの音で、そのソロの足元に、そっと加わる。いちばん目立つあの子の音も、ひとりきりで立っているわけでは、なかった。その足元に、いま、自分がいた。
どこかへ、たどり着きたいのに、たどり着けない。二楽章はずっと、そういう音楽だった。それでも、すこしずつ、進んでいく。やがて、音楽がすこし熱を持ちはじめた。木管がいっせいに動きだし、颯太のバスクラも、その渦の中にいた。低い音だけじゃない。高いところまで駆けあがって、細かい音を、つぎつぎに鳴らす。半年、何度もさらってきたフレーズだ。考えるより先に、指が動いていく。夢中で吹いているあいだは、緊張を忘れていられた。けれど、音楽が、また、ゆっくりと鎮まっていく。鎮まるほどに、あの場所が、近づいてくる。颯太は、自分の心臓の音が、やけに大きく聞こえるのに気づいた。練習では、何度も力んで、しくじった場所。掴みかけて、するりと逃げられた場所。今日は、どうなるんだろう。
ただ、あの場所は、まだ来ない。
その手前で、吉上のオーボエが、ひとり、歌っていた。長い音を置く前に、すこしのあいだ、自由にうたう場所がある。練習のときは、自分の出番のことで頭がいっぱいで、ほとんど聴いていなかった。いま、はじめて、ちゃんと聴いた。力んだところのない音が、ホールの上のほうへ、するすると伸びていく。
そして、その足元で小さな音が、ぱらぱらとこぼれていた。マリンバだ。間宮の音。聴こうとしなければ聴き逃してしまうくらいの音で、細かい粒を、ひとつ、ふたつと置いていく。オーボエの歌の下に、こぼさないように、そっと敷いていた。
(……こんなところでも、鳴ってたのか)
いま、はじめてちゃんと耳に入った音だった。低い音で支える自分とも違う。ここぞで底を動かす白井とも違う。ここではまだ、ひとつぶ、ふたつぶ、こぼれているだけ。でも、次の楽章では、あれが止まらずに、ずっと流れをつくりはじめる。あの、止まらない手の意味が、いますこしだけわかった気がした。
いまはまだ、オーボエの足の下で、息をひそめているだけ。でももう、次の流れは、ここからはじまっていた。
オーボエが、長い音を、置いた。吉上の音だ。その下で、フレーズが、流れはじめる。クラリネット。エスクラ。アルトクラ。すこしずつ、低い音へ、受け渡されて、受け渡されて、颯太のところへ来た。
颯太は、それを受け取った。前の誰かが鳴らした線の、続きを引く。受け取ったときには、もう、まわりは引いたあとだった。残ったのは、吉上のオーボエと、自分のバスクラ。二つだけ。
二人だけ。
颯太は、息を吸った。聴かせよう、と思いかけて、やめた。逆井の声が、頭の隅で鳴った。並河さんはな、いま、吉上さんの音、聴いてる?
颯太は、聴いた。吉上のオーボエが、いま、どこにいるのか。どんな息で、伸びているのか。それを聴いて、自分の音を、その隣に、そっと置いた。
前に出よう、としなかった。聴かせよう、としなかった。ただ、吉上の音の、となりに、いた。
二つの音が、ひとつの線に、なった。
颯太は、それを、はじめて、聴いた。自分の低い音の上で、吉上のオーボエが、伸びていく。颯太が前に出るのをやめたぶん、その音が、ほんのすこし、こちらへ身を寄せてきた。安心して、寄りかかってくるみたいに。その伸びが、こんどは、自分の音を、押し上げてくる。どちらが前に出るでもなく、二人で、ひとつの場所を、作っていた。
短い、数小節だった。すぐに、トロンボーンと弦バスが下から戻ってきて、ティンパニが低いところでながく唸りはじめる。そこへ、あの細かい粒がまた混ざってきた。間宮のマリンバだ。けれど、吉上のオーボエだけは、まだその上で歌いつづけている。颯太が音を抜いても、その歌は止まらなかった。やがてホルンとトロンボーンとティンパニが、最後の和音を静かに置いて、二楽章が閉じた。ずっと肩に入っていた力が、ふっと、ほどけていた。
恵は、指揮台で、棒を振っていた。
三楽章。梅雨明けを待ち焦がれるように、前へ進もうとする音楽。
その流れのいちばん先頭で、間宮のマリンバが休みなく細かい粒を刻んでいた。目立つ音ではない。けれど、その粒が止まれば、五十人の足並みは、たちまち崩れる。はじめに弦バスが下から支え、クラリネットがそっと色をつける。やがてピアノがマリンバと同じ形で粒を刻みはじめ、流れはいっそう太くなった。そこへフルートが、サックスが、つぎつぎに重なっていく。ファゴットと並河のバスクラも、いつもより高いところで、その流れに乗っていた。同じ小節で、オーボエも、上から重なってきた。ひとつ、またひとつと楽器が増えて、音楽は前へ前へと勢いをつけていく。
恵は、その日、数字を忘れていたわけではなかった。むしろ、逆だった。半年、一楽章の入りのばらつきも、二楽章のテンポの揺れも、ひとつずつ数字で見つけて潰してきた。あの日マイナスをつけた箇所が、いまは、きれいに揃って流れていく。その積み重ねた「道筋」が、いま、ぜんぶ、音になって走っていた。
そして、その数字の上を、針の振れにもメトロノームの目盛りにも書きとめられなかったものが、流れていた。五十人が、夏のほうへ、いっせいに身を乗り出していく。その勢いだけは、どの記録にも、残っていなかった。
やがて、音楽が、ひとつめの大きな山を迎える。白井のティンパニが底を突き上げ、それまで粒を刻みつづけていた間宮が、マリンバを離れてシンバルをマレットで鳴らしはじめた。流れを作っていた手が、こんどは光の幕を、ざあっと広げていく。五十人の音が、ぐうっと、ふくれあがった。
頂点でも、音楽は止まらない。いったん引いて、息を溜め、また駆け上がる。最後にテンポが、わずかにたわんだ。恵は、そのたわみを棒で引き絞り、ぜんぶの音を、いちどに前へ放った。
そして、四楽章。
夏が、来る。
ずっと、最後にしか来ない、と言われていた、夏。前の三つの楽章を全部通り抜けて、はじめて辿り着く、夏。
ずっと張りつめていた何かが、ほどけた。指揮棒が振り下ろされた瞬間、五十人が、いっせいに飛び出した。半年やってきたなかで、いちばん速くて、いちばん明るい音楽だった。颯太のバスクラも、もう迷わなかった。低い音で刻みながら、ときどき高いところへ跳ねあがる。まわりとぶつかり、笑い、転がっていく。
夏だ、と思った。やっと来た。
いちど、音楽が、ふっと翳る。高いところでピッコロとフルート、それに吉上のオーボエが、おなじメロディを重ねていた。グロッケンやベルが、その下で、ちりちりと光る。夕立のあとの、濡れた光みたいだった。颯太のバスクラも、アルトクラと組んで、メロディの下で細かい音を動かしていた。支えながら、その歌を聴いていた。
また、テンポが上がる。前より、もっと速く。そこへ、聞き覚えのある、細かい粒が、戻ってきた。間宮のマリンバだ。こんどはコンガと一緒に、リズムを、ぐいぐいと押してくる。あの止まらない手が、また、曲を前へ運んでいる。颯太のバスクラも、その流れに飛び乗った。
音楽が、何度も、大きな波になった。みんなで駆けあがって、頂上でぶつかって、また駆けあがる。颯太は、もう、自分だけ目立とうとは思っていなかった。まわりの音が、よく聴こえた。誰がいま、どこにいて、どこへ行こうとしているのか。半年前には、何ひとつ聴こえていなかったのに。
やがて、波が、いちど引いた。ホールが、しんと凪ぐ。その静けさの上を、フルートが、すべりながら歌った。水の上を、とんぼが、すいっと横切っていく。エスクラが、遠くで、ひとり歌った。夏の昼下がりの、いちばん静かな時間みたいに。
そこへ、吉上のオーボエが、そっと加わった。すこし低いところから、トロンボーンが、それにこたえる。高い声と低い声が、静けさの底で、ぽつりぽつりと、ことばを交わしていた。その対話の下を、颯太は長い音で、そっと支えた。ずっと離れたステージの端では、間宮がマリンバを離れ、ビブラフォンの澄んだ響きで、おなじ静けさを支えていた。二楽章のときと、おなじだ、と思った。誰かの歌の下に、いる。
やがて、ピアノがたゆたいはじめた。音が寄せては返して、まるで、まどろんでいるみたいだった。夏の午後の、まぶたが重くなる時間。颯太の指も、その揺れの上で、ふっと力を抜いた。
白井のティンパニが、低く、鳴りはじめた。風が、起こる。
颯太は、その風を、後ろのほうで、聴いていた。
まどろみから、ゆっくりと目を覚ましていく。タンバリンが、刻む間隔をすこしずつ詰めていく。それにつれて、白井のティンパニが、低いところでだんだん大きくなっていった。眠っていた夏が、ひとつ、ひとつ、寝返りを打って起き上がっていくみたいに。
ここぞ、の連続だった。一打の前のほんの一瞬、白井はいつもわずかに首をかしげて、ホール全体に耳を澄ますような間をとってから、腕を振り下ろす。叩く時も、叩かない時も、ずっと全体を聴いてきた、あの白井のいちばん大きな出番だった。
間宮は、ビブラフォンを離れてタムタムの前に立っている。うねるようにふくらんでは、ときおり、ずしんと打ち込まれる。鳴るたびに、空気がぐわん、ぐわんとふるえた。風は、もう止まらなかった。五十人が、いっせいに、頂点へなだれ込んでいく。
そして、いちばん、最後。
ふっと、すべての音が、消えた。五十人が、いっせいに、息を止める。一拍の、まっしろな、沈黙。
その沈黙を、白井のティンパニが、破った。たたみかける連打が、ひと息に駆け上がっていく。来い、来い、来い、と颯太を呼ぶ。
颯太は、息を吸った。胸の底まで、深く。指が、キイの上で、ひとりでに構えをとっていた。半年、この低い音で、ずっと曲の底を、支えてきた。
けれど、風は、すぐには来なかった。音楽が、いちど、すうっと引いていく。小さく、小さく。低いところで、息をつめたまま、じっと、保つ。そして、また、ふくらみはじめた。すこしずつ、おおきく。地面の底のほうから、何かが、せり上がってくる。
指揮台では、恵が、その膨らんでいく風を、全身で受けとめていた。ばらばらの学校から集まった五十人が、いま、ひとつの風になろうとしている。半年、測ってきた、どの数字にも書けなかったもの。けれど、その数字の一つひとつがなかったら、この風は、立たなかった。
そして、その一瞬が、来た。白井のティンパニが、底を蹴りあげる。間宮のタムタムが、空気を、ぐわんと押し開く。高いところでは、吉上のオーボエが、まっすぐに伸びていく。颯太のバスクラも、その風の中へ、飛び込んだ。ずっと低いところで鳴ってきた自分が、みんなと一緒に、一陣の風になった。
その風を、恵の棒を持つ手が、すくい取る。測れたものと、測れなかったものが、ここで、ひとつになっていた。
風は一瞬のうちに、翠の光をまとって、ホールの天井へ昇り、消えた。
ホールが、ひと呼吸、音をなくした。それから客席の隅で、最初の手が鳴った。残りはあとから雪崩を打って、堰を切ったあと、いっせいに広がっていく。
颯太は、座ったまま、その音を後ろのほうで受けていた。前で、吉上が立ち上がる。ソプラノサックスのあの子も立つ。拍手が、いっそう強くなった。颯太の指先には、まだキイの感触が残っていて、リードの先は、湿ったまま唇のかたちを覚えていた。後ろのほうの、目立たない場所。でも、いまだけは、その場所が、世界でいちばん良い席のように思えた。
翠風の光は、プログラムの真ん中の曲だ。颯太たちが一礼して袖へ下がっても、発表会は、まだ続く。あとに続く何曲かを、別のチームが、順に舞台へ運んでいった。
全部のプログラムが終わると、生徒たちは、ホールの外へ送り出された。建物を出た先の広場に、記念写真用のひな壇が、組んであった。澄んだ秋の西日が低く差して、ひな壇を橙色に染めている。さっきまでホールの中で夏を鳴らしていたのに、外の空気は、もう、すっかり秋だった。曲ごとのチームが、順番に呼ばれて、そこへ上っていく。
翠風の光の番が来て、五十人が、ひとり残らず、肩を寄せて並んだ。知らない学校の制服も、いまはもう、知らない、ではなかった。颯太の隣で、吉上が笑っていた。すこし離れて、白井が、めずらしく口の端を上げている。そのうしろで、間宮が、あいかわらず眠そうな顔のまま、ちゃんとおさまっていた。
「平木先生、まんなか、まんなか」
誰かに引っぱられて、恵が、列のまんなかに収まった。半年、指揮台の上から五十人を見てきた人が、いまは、その五十人のあいだにまじっている。シャッターが、鳴った。
写真が終わって颯太がふと見ると、ひな壇のそばで、逆井のまわりに生徒が数人、集まっていた。颯太も、つられて、近づいた。
「みんな、よかったよ。ほんま、ええ風やった」
逆井は、自分のことみたいに、嬉しそうだった。
「なこさん、指揮の先生なんですか?」
誰かが訊いた。逆井は、うーん、と首を傾げた。
「どうやろ。ふだんは、別の仕事してんねん」
「えっ、何の?」
「みんなが、知らんうちに使ってる、目に見えへん仕組みがあるやろ。あれが、止まらへんように、世話する仕事。……数えられるものにも、数えられへんものにも、ちゃんと意味を見つけて、ぜんぶが、落ちひんように、ええ感じで続くように、作っていく仕事、かな」
颯太には、半分もわからなかった。でも「数えられへんものにも、意味を見つける」というところだけ、なぜか、引っかかった。
「目立たへんとこで、ずっと支えてる。並河さんの、あの低い音と、ちょっと、似てるかもね」
逆井は、颯太のほうを見て、笑った。それから、白い名刺を何枚か、生徒たちに配った。「逆井謎子」と書いてあって、下にURLが一行。
「気が向いたら、見てみ。すぐじゃなくて、ええよ。何年か先でも」
そう言って、逆井は、立ち上がった。
「ほな、わたし、行くね。……あ、そや。並河さん」
「はい」
「目立つって、なんやろね。今日のあれが、目立つ、とは違うんやとしたら……あれは、なんやったんやろ。ちょっとだけ、考えてみ」
颯太は、すぐには、答えられなかった。逆井は、それでいいというふうに笑って、ひらひらと手を振り、人混みのほうへ消えていった。
すこし離れたところに、平木先生が、立っていた。生徒たちが逆井を囲む輪を、すこし遠くから、じっと、見ていた。
逆井が人混みに消えたあと、恵は、胸に抱えていたスコアをふと見おろした。
ページの間から、白いものがすこし、のぞいていた。引き抜くと、名刺だった。「逆井謎子」。読みは、振られていない。下に、URLが一行だけ。
いつのまに、はさんでいったのだろう。恵は、それを、手に取った。電話番号も、住所も、ない。半年、隣で一緒に棒を振ってきた人のことを、自分は、ほとんど何も知らないままだった。
まわりではまだ、生徒たちが、興奮の冷めない声で喋っていた。今日の演奏が、どうだった、ここが、すごかった、と。数字には絶対に出てこない種類の、声だった。
恵は、スコアを抱えたまま、いちばん近くにいた南中の生徒に声をかけた。並河だった。
「並河さん」
「あ……平木先生」
「今日、吹いてて……どんな、感じ、だった?」
訊いてから、自分でも、すこし声が震えたのがわかった。測ったことなら、何百回も、ある。でも、こんなふうに訊いたことは、一度もなかった。
颯太は、すこし考えてから、言った。
「……最後、みんなで、風になった感じ、しました」
恵は、その言葉をメモにはしなかった。何目盛りでも何小節でもないその答えを、ただ聞いた。
測るより訊くほうが、ずっとこわかった。何が返ってくるか、わからないから。でも、返ってきたものは、どの数字よりもずっと確かに、そこにあった。
恵は、スコアのいちばん前のページに、名刺をそっとはさみ直した。
これまで恵は、数えられるものを、ただ数えてきた。何目盛り、何小節、何回。針が真ん中で止まれば、それでいいと思っていた。
その数字は、あの子たちの音が誰かに届くことと、どこで繋がっているのか。そこまでは、考えてこなかった。数字は、たどり着く場所だと思っていた。でも、ほんとうは、そこからはじまる場所だったのかもしれない。
測って、それから、訊いてみる。明日からは、その両方を。
(……やって、みよう)
こわいけど、すこしずつ。
【この物語に意味を置いていった楽曲】
長生淳『翠風の光』(「四季連禱」より)